令和5年度広島平和研修感想文(北中生徒)

更新日:2024年04月01日

江間結衣「自分事として」

原爆投下を少しでも自分事として考えられるようにしたい。そんな思いを持って、私はこの研修に参加しました。
実際に広島へ行ってみると、建物がたくさんあり、人も多く、想像よりもはるかに栄えていました。私は少し驚きました。原爆が落とされた地ということで、少し暗い場所なのだと勝手にイメージしていたからです。
しかし、資料館を見学したり被爆した方のお話を聞いたりなどして、あの日広島で起きたことを目の当たりにすると、さっき見た広島の風景とは、正反対のあまりの惨状に、正直実感がわきませんでした。自分が見ている資料、聞いている話は、つくりものなのではないかと疑ってしまうほどに。
資料館では、空にできた巨大なきのこ雲や、大きなやけどを負った人々が写ったモノクロの写真、被爆者が、見た光景をさまざまな色で表現した絵、亡くなった人が使用していた焼け跡のある服や日用品などが展示されていました。視線をそらしたくなるほど恐ろしいものばかりで、原爆が人々に与えた身体的・精神的苦痛は、私には到底想像もできないほどつらいものだと感じられました。
また、被爆体験講話をしてくれた清水さんは、3歳で被爆してから放射線の影響で今も病気を患っており、家族も亡くしたそうです。当時は、放射線による症状は感染症だと思われており、差別を受けた人もいたと聞きました。原爆は、その人の未来をも蝕んでいくと知り、改めて恐ろしいものだと思いました。
核兵器によって多くの命が奪われた事実があるにもかかわらず、核兵器の数は世界で一万を超えています。そのうち、いつでも発射できるものは3,000個以上。この中のどれか一つでも発射されれば、あの広島以上の大惨事となるでしょう。そうならないために、一人一人が戦争や核兵器の恐ろしさを知り、自分事として考え、全員で平和をつくっていかなければいけないのだと考えさせられました。

堀優華「戦争と原爆」

今回、広島平和研修で「戦争の悲惨さや平和の尊さ」について考えるために、広島市へ行きました。
「広島市の昔はどうでしたか?」私は、数年前からこの質問に興味がありました。
今回の広島研修で、私は、資料館の見学、被爆体験者からのお話、そして被爆遺址への見学を通しその悲惨な場面を頭の中で思い浮べました。被爆前の広島にはきっと多くの人々の平和な暮らしが息づいていたんだろう、とても賑やかな日常があったんだろう、と。
1945年8月6日午前8時15分、アメリカ軍は広島に原爆を投下しました。その威力はすさまじく、一瞬で広島を焼け野原にしました。爆風と熱線、それだけでなく放射線です。放射線は目に見えないので救助などで他の地域から来た人も被爆しました。二次被爆です。被爆後の広島はなんて怖いんだろう。大火傷を負って逃げて来た大勢の負傷者の群れ。頭髪は焼けちぢれ、顔、腕、背、足のいたる所の火ぶくれが破れた。人々のうめき声が聞こえ、川の中は何層もの死体、川の水も血で赤く染まった。 焦土の中で親たちは、子供を必死で探しました。大勢の遺体は、火葬されました。その時の広島は絶望とパニックできっと地獄だったに違いありません。
しかし、これだけではありません。多くの広島の人を放射線は体をむしばみました。原爆症です。体の中の細胞を破壊していくのが放射線の特徴です。これが原因して発症する病も多くあります。
だから、「核兵器は悪魔の兵器」と、言われます。
戦争、原爆は悲しみをもたらすだけです。世界中にまだ戦争があります。だから、この悲惨な体験をした日本から戦争の無意味さ、悲惨さを発信し、みんな一緒に平和を守りましょう。

渡部花音「戦争、原爆の恐怖」

私は広島研修に行って、改めて戦争、原爆のおそろしさを知ることができた。そして、今の生活のありがたみをすごく実感することができた。
特に放射線については、今まではよく分からなかったが、話を聞いていくうちに私が思っていた倍の影響を及ぼしたことが分かった。
広島に落とされた原爆の中に入っていたウラン235は60キログラムのうち爆発したのはたった800グラムだ。爆発しなかったものが放射線として飛び散った。
放射線はたくさんの後遺症を発生させる。下痢や吐き気、腹痛、大人になったらがんを発生させる。放射線は死ぬまでずっと体をむしばむおそろしいものだということが分かり、心が痛んだ。
被爆者の清水さんによると、多くの被爆者がその後の生活に苦しんだそうだ。救護所が閉鎖され、他の人や他の県にたよるしかなかった。しかし、放射線の後遺症が伝染病と聞違われ、うそをついて生活するしかなかったそうだ。広島であんなことが起こり、たくさんの人が亡くなり、日本にいる誰もがアメリカに反感を持ち、誰もが皆、広島のことを支援してくれると思うだろう。しかし、そんなことはなかった。アメリカの政府が日本を支配し、広島の記事をなくし、広島に入ることも禁止され、被爆者を秘密の存在にしようとしていたのだ。おかしいと思った。日本はボロボロで原爆をおとさなくていい状況だった中、自分の国が有利になる、強いと思わせられる、そんな理由でたくさんの命をうばった。それだけではない、それをかくそうとした。
これ以上こんなことがあってはならないと思った。でも、これは昔話ではない。現実に起こりうる問題だということを理解しなければならない。世界の核爆弾は12,705発もあり、今も増え続けている。そして何より今も戦争がある。核爆弾をなくすこと、まずは戦争をなくすこと、それが早く実現してほしい。

渡邉桃禾「多くの被害をなくすために」

私は今回平和研修に行き、戦争について色々と学びました。初日にピースボランティアの方が平和記念公園で様々な話をしてくださった中で私は二つの話がとても印象に残っています。ひとつは四歳の子供が被爆し、熱い、痛いなどと泣きながら言っているのに対し母親が一緒に死んでやるから泣かないでと返したが、近所の人がバカをするな、と母親を引き剥がし子供だけが亡くなった、という話です。自分には四歳の弟がいて、もしこの話が私の弟と母だったら、と考えました。もう一つは男子学生が飛び出た眼球を押さえながら女の子に逃げろと言った話です。自身も痛くて苦しいはずなのに他の子に逃げろと言うなんて自分には到底できません。どちらも人のための自己犠牲が含まれています。戦争がなければ犠牲にならずに済んだはずの命。政府同士の喧嘩に巻き込まれ被害にあった当時の人々の気持ちを思うと言葉もありません。研修参加前に見た当時の広島を題材にしたドラマの主人公が終戦を告げるラジオ放送を聞き激しく怒っていた気持ちの一端を私自身も感じました。
2日目に被爆者の方にお話を聞いた際私はアメリカに対してどう思うか、と質問をしました。てっきり憎い、と返ってくると思っていましたが、アメリカの政府は憎いが国民は全く憎くない、可哀想だとすら思う、と言われ予想外でしたが考えてみればその通りです。日本人もアメリカ人も国民は政府同士の喧嘩に振り回された同じ被害者なのです。
資料館には様々な展示物がありました。特に覚えているのは黒く炭しか入っていないお弁当箱や真っ黒な一輪車、そして穴だらけのワンピースです。楽しみにしていたのに食べることなく終わってしまったお弁当箱。まだ遊ぶはずだった一輪車。可愛らしいワンピースも戦争がなければ全て幸せに繋がっていたはずです。なぜ未来を壊したのでしょうか。誰がなんのために。研修参加前に感じていた戦争は良くないものだという何となくの気持ちが心の底から、人々が苦しむだけの戦争などあってはならないという気持ちに変わりました。同時に放射線などの風評被害にあっている方を救いたい、とも思いました。私にできる事は少ないですがせめて声を上げて風評被害を減らしたい、と強く心に誓いました。そして亡くなった方々へ尊敬をもって二度と戦争を起こさないように心から願います。

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