令和5年度広島平和研修感想文(長泉中生徒)

更新日:2024年04月01日

長田舞夏「広島と平和」

私が、今回の広島研修で最も印象的だったことは、被爆者体験談です。「被爆者は生き延びられたからといって幸せな訳では無い」という言葉がとても頭に残りました。被爆者の清水さんの話によると、「被爆者は生き残ることが出来たラッキーな人と思っている人がいるが、そうではない、そういうイメージを持たないで欲しい。」と言っていました。当時の写真や洋服など、残されたものが展示されている平和記念資料館にも、多くの被爆者の話が残されていました。どれも、原爆によって亡くなった方の家族や親戚の、悲しみの声でした。中には、両親を亡くしてしまった子どもや、最愛の夫や妻、子どもの死によって一人になってしまった老人、今だに我が子が見つかっていないという人もいました。どんな人も、みな家族のことを今でも想っていました。
また、原爆ドームや袋町小学校、平和記念資料館に行ったことで、より当時の広島を身をもって体験することが出来ました。特に、原爆ドームは写真で見るよりもはるかに迫力がありました。袋町小学校という学校は、教科書で「壁に残された伝言」と載っていた実物がある場所で、伝言だけでなく崩れている壁まで当時のままにされていて、その時の様子を感じることができて、とても貴重な体験となりました。平和記念資料館では、調べても出てくることのない資料が実際に展示されていました。爆撃によって曲がった鉄骨やその時の様子を絵に描いたものが展示されており、核兵器の悲惨さを身に染めて感じました。軍隊に関係していない、罪のない一般の赤ちゃんからお年寄りまでが無差別に殺されていると考えるととても恐ろしく感じます。
私は今回初めて広島を訪ねましたが、第一印象は、ビルが多く栄えていて、鳥や魚、植物が多く、自然豊かで平和そのものと言えるほどの街でした。自分が立っていた場所に、78年前そんなことが起こっていたと考えると想像できません。
もしあの日、晴れていなければ。雨が降っていれば。空襲警報が解除されていなければ。
考えるときりがないほど、原爆について思うようになりました。
今回の研修を通して、実際に見て感じたことや学んだことを周りの人に発信し、少しでも多くの人に戦争の悲惨さ、核兵器の恐ろしさ、戦争は決してしてはいけないということ、平和の大切さを伝えていきたいです。

木下賢司「~黒人差別の二の舞をなくそう~」

僕が広島研修で心に残ったことは、被爆しているというだけで被爆者が差別を受けていたことだ。
まず、自由な結婚が難しい。「自分の子孫に影響がでることがつらい。」この気持ちはわからなくもないが、お互いが好きなのだから結婚させてあげてもよいのではないかと思う。
次に、自由に好きな仕事に就けない。経営者側からすれば、「長く働けるかわからない人を雇いたくない。」という考えなのだろうが、少しでも働く人が多ければ、効率がよく、企業の収入も増えていくのではないかと思う。
そして、聞いていて最もひどいと思ったのが、被爆者の親戚の中に、「うちに来るな。」と言い、親戚にもかかわらず、追い返した人がいることだ。赤の他人が頼ってきたならば追い返すことも仕方がないが、自分の親戚が苦しい目にあっていて、それを「被爆者は嫌だ。」「養うことができない。」などの自分たちの気持ちや都合で助けないのはおかしいこと。
親戚ならば助けるのが当たり前だと思う。
これらが原因で被爆者は、「私は広島にいましたが、原爆の被害にはあっていません。」と、うそをつきながら生きてきたのだ。うそをつきながら生きるということは心の中に罪悪感があるまま生きるということだと思う。それに、原爆という悲惨な過去を被爆者が自らなかったことにしようとすることにもつながってしまう。これは非常におかしいことだと思う。
また、被爆者は自分たちから望んで、好きで被爆したわけではないし、原因の戦争だって、日本が始めたことなのだから、残った日本国民全員が団結して、どうにか全員が生き延びられる道を考えるべきだったのではないかと思った。
今生きている被爆者だっているのだし、僕は、自分の親戚が被爆しているからこそ、被爆者が生きやすい世界になるよう、もっと原爆への理解を深めていきたいと思った。

比田井結亜「平和な世界への第一歩」

広島に到着したとき、私はとても驚きました。78年前、本当にこの場所に原爆が落とされたのか、と疑うくらい街が綺麗だったからです。
原爆ドーム、テレビで見たことはありましたが、実際に見ると何倍も迫力があり、何倍もあの日の悲惨さが伝わってきました。
原爆の子の像。2歳の頃に被爆し、その10年後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんをはじめ、全ての子供の霊を慰めるために建てられた像です。この像の周りには、多くの折り鶴が飾られていました。日本国内からだけではなく、外国の学校からの折り鶴もありました。折り鶴をみて、とても温かい気持ちになりました。
平和記念公園の中をまわった後、平和記念資料館に行きました。ぼろぼろの壁、血のついた衣服、火傷をおった子供の写真、どれも見ていて心が苦しくなりました。原爆直後の広島の写真も見ました。建物はほとんどなく、人の姿も少なく、家族を必死に探しているような人が数人だけ。朝なのにとても暗く、原爆の恐ろしさが一目で伝わってきました。
2日目は、三歳の頃に被爆した、清水さんに話を伺いました。原爆症でお父さんを亡くし、生活が苦しくなった。そう話す清水さんの顔は、とても悲しく見えました。一番つらそうだったことは、被爆者への差別です。テレビでは正しい情報が報道されず、病気だと周りの人から言われたそうです。そのため、嘘をつかないと仕事に就けない、結婚できないという状況だったそうです。
清水さんは最後に、今日のことを友達に話して、とおっしゃいました。全ての人が、戦争や原爆の悲惨さ、恐ろしさを知れば、平和な世界に近づくと思います。同じ過ちを繰り返さないために、一人でも多くの人に戦争の悲惨さ、命の尊さを伝えていきます。

福田健太「原爆の悲劇の「風化」」

私は、この研修に行く前に、事前学習を行いましたが、文章だけで理解していたため、あまり、被害が想像できていませんでした。
しかし、広島平和記念資料館の写真や絵を見ると、広島が焼け野原になっているところや、たくさんの人が苦しんでいる、地獄の光景をしっかり想像できるようになりました。だから、私は、この研修を通して、「この悲劇は、二度と起こしてはいけない。」という思いがとても強くなりました。
また、被爆者の貴重な話も聞くことができました。被爆時、被爆後の様子を知ることができ、最後に、「戦争のない世界になりますように。」という被爆者の願いを知ることができました。
しかし、今の時代は、ロシアとウクライナの戦争が続いています。また、原爆を知らない世代による原爆の「風化」が心配されています。
ロシアとウクライナの戦争では、ロシアがベラルーシに核兵器を運び、いつ核兵器が使われてたくさんの人が犠牲になっても、おかしくありません。だから、原爆の悲劇を理解した私たちが、率先してそのことを多くの人に伝えなければなりません。
私は広島に行く前に、一つ課題を決めていました。「日常を守り続けるためには、どのように行動すればいいのか。」です。研修を終えて、自分なりに出した答えがあります。それは、「多くの人で一体化して、粘り強く課題に取り込むこと」です。日常を守り続けるために、原爆の被害を伝えて、もう二度と戦争を起こさず、核兵器がこの世界からなくなるように、大勢で粘り強く訴え続けなければならないと思います。まずは、私から積極的に伝えていきます。

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