令和4年度平和学習(北中生徒感想)

更新日:2024年04月01日

黒木桜子「もう二度と、あの過ちを。」

「原爆による1945年12月末までの死者は、約14万人」
広島に行く前に原爆について調べた時、この一文が目に留まった。この数字を見てもあまりに膨大すぎて、原爆による人への被害がどのようなものだったか、想像がつかなかった。しかし、実際に広島平和記念資料館に展示されている原爆投下当時の被害者の様子を描いた絵や写真を見た時、私は衝撃を受けた。あの日の広島の光景が、しっかりと想像できたからだ。皮膚は垂れ下がり、引き裂かれた衣服を身にまとったまま、両手を突き出しながら無言で逃げる人々の姿。もはや男女の区別もつかないような状態になってしまった死体の数々。怖い、と思った。人をこのような姿にしてしまった原爆が、心の底から恐ろしかった。
実際に被爆体験を聞かせてくれた方は、子供のころは体のだるさや下痢、鼻血などに苦しまされ、大人になるとそれらの症状は治まったが50歳頃から次々と病気を発症し、今でも治っていない病気もあるそうだ。また、就職や結婚の際には差別などにもあい、生きていくために嘘をつく人もいたそうだ。原爆は爆発した後も心と身体に残り続け、人々を苦しめる悪魔の兵器だということが分かった。被爆した方々の苦しみは死ぬまで終わらないのだ。
一瞬かつ無差別に人々の命を奪い、その後の後遺症や差別などで苦しめ、社会生活そのものまで破壊した原爆。絶対にあのような悲惨な出来事を二度と繰り返してはいけない。しかし、今世界は1万3千個以上の核兵器を保有しており、核実験を行っている国もある。もし、このうち一発でも使用されたら、またあの日の広島のような出来事が起きていまうかもしれない。あの日のことは、決して昔話ではないのだ。同じ苦しみを繰り返さないためにも、核兵器をなくすことが最も重要だ。
一人の力では難しい。だからこそ、皆が核兵器の危険性や平和について知り、周りの人に伝え、考えることが大切だと思う。そして、一人一人が行動をおこすことによって、世界の平和につながっていくのでないだろうか。私も、広島で学んだことを生かし、今の自分にできることから行動にうつして、平和な世の中の実現に少しでも近づけていきたい。

加藤夕依「私が出来ることは」

私は背筋が凍りました。
2022年10月、長泉町の広島平和研修の一環で、広島の追悼平和祈念館を訪問し、被爆体験者の清水さんの話を聞いたときのことです。1945年8月6日の午前8時15分頃、アメリカ軍のB29爆撃機の落した原子爆弾により、約14万人の命が奪われたのです。
 被爆地には皮膚が爛れ、水を求めてさまよう人、壊れた建物の破片にぶつかりその下敷きになっていた人、そして大切な家族を探す声や、痛みに耐えながらうめき声をあげる人もたくさんいたそうです。被爆地となった広島平和公園には、昔は家がたくさんあり大勢の人が住んでいました。公園の土を掘ってみると、被爆によって炭化した畳がたくさん埋まっていたそうです。
他にも、昔はどの家庭でもウサギを飼っていましたが、戦争になるといつの間にか回収され、肉と皮に分けられたあと食料と防寒用品の材料として使われたというお話も伺いました。当時の子供たちはウサギを大切な家族の一員として育てていたのに、殺されてしまっていたと知ったらどんな気持ちになるのだろうかと、想像しただけで胸が苦しくなりました。
戦後70年を超えた今、平和になった現代で「平和になって良かった」という事を言う人もいます。しかし被爆者の方々は、「今のロシアの行っている事を考えると、昔話として考えてはいけない。」とおっしゃっていました。核保有国であるロシアが戦術核を使う事も辞さないと宣言している現状で、いつ広島や長崎の再来があってもおかしくはないのです。最悪な事態は起きてほしくないと思うと同時に、私に何が出来るかと考えさせられました。

小山絢菜「広島研修を通じて」

1945年、8月6日午前8時15分、あの日のことを少しでも知りたいと思い、私は、広島の平和研修に参加することを決めました。
平和研修に行くまで私は、原爆が広島に投下された理由や、当時の被害状況などを知りませんでした。(原爆が広島に投下されたことは知っているけれど、原爆の被害状況や広島に原爆が投下された理由は分からないから知りたい。)と思い、参加をしました。
しかし、実際に参加してみると、私が想像していたよりも、原爆はとても恐ろしいものでした。
まず始めに、私たちは、広島平和記念資料館を訪れました。音声ガイドを聞いたり、写真や実物を見たりしながら、館内を回りました。しかし、核兵器や原爆の恐ろしさは、私が予想していたものよりも遥かに悲惨でした。私は、途中から辛くなってしまい、展示されている物をしっかりと見ることができなくなってしまいました。
次に、原爆ドームを訪れました。実際に見てみると、建物の一部が崩れてしまっていました。周りが棚に囲まれていたので、(とても大切な建物なんだなぁ。)と感じることができました。だから、私たちが原爆の悲惨さを伝える建造物を守り、次世代に繋げていきたいと改めて思いました。そして、最後に私たちは、広島市立袋町小学校を訪れました。この袋町小学校は、国語の「壁に残された伝言」の授業で取り上げられていた小学校でした。国語の授業で習ったように、壁には「寮内」という文字がありました。他にも、「西」や「小学校」、「一年生」などの文字も書かれていました。学校にある道具も被爆してしまい、壊れてしまったものもいくつかあり、とても悲しかったです。
私たち二年生が作った千羽鶴に込めた思いが世界中の人々の心に届き、「あの日」のことを次世代に繋げていきたいと思いました。

岩間穂奏「あの日の広島」

「死者14万人は、明確な人数ではない」
この言葉が、どれほど広島をどん底へ突き落したのか、現代を生きる私たちにも分かります。あの日、多くの人々の命が無差別に奪われ、想像を絶するほどの痛みや苦しみ、そして憎しみを抱いた人々が大勢いました。そして、死者の多くが、中学生だと説明を受けました。私は、原子爆弾がどれほど危険かつ残虐な兵器なのかということを、改めて知りました。
私たちは、この研修を通じて、被爆者の方のお話を聞くことができました。お話をしてくださった方は、当時3才だったそうです。被爆者の方は、10年間原爆の後遺症で苦しんでいたとおっしゃっていました。それだけでも、放射線の恐ろしさが伝わりました。体の中の細胞を破壊していくのが放射線の特徴です。放射線が原因で発症した病気も多くあります。代表的なものが、白血病、がんです。その他にも、死体が赤色や青色、紫色などに変色したり、血の斑点や舌からの出血、頭髪が抜けたりするなど、様々な症状がありました。また、原爆投下後の高熱火災で親を亡くした、私たちよりも幼い子どもも大勢いたそうです。被爆者の方が、「核兵器は、悪魔の兵器」とおっしゃっていましたが、本当にその通りだと思います。 みなさんは核兵器をどう思いますか。今は何も起きていないし、平和だと思っている人もいるかもしれません。でも、世界に目を向けると、今も戦争をしている国があります。もう一度「平和」は何なのかを考える機会が、今を生きる私たちには必要だと思います。そして、広島に限らず、核兵器、戦争とはどういうものなのかをみなさんにも知って欲しいです。広島の「あの日」のことを、昔の出来事として捉えてはいけないと、研修を通じて思いました。

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