令和4年度平和学習(長泉中生徒感想)

更新日:2024年04月01日

山本瑠夏「平和の尊さ」

私は今回の広島派遣事業を通して、核兵器がもたらした悲惨な歴史や平和の尊さについて認識を深めたかったので研修に参加し、広島に訪れました。広島は綺麗な街並みで観光客で賑わっていましたが、唯一原爆ドームは投下された原子爆弾の悲惨さが伝わる建物でした。私は事前学習や資料でしか原爆ドームを見る機会がなかったので初めて目の当たりにした時、言葉で言い表せない気持ちでいっぱいになりました。崩れかけている壁やレンガ、ドームの部分の骨組みが丸見えだったことなど、77年前8月6日の人々の日常を一瞬で破壊した原爆の傷あとが、今も生々しく残されていました。原爆ドームの見学が終わると、つぎに被爆体験講話の清水ひろしさんのお話を伺いました。この講話は研修中、私が特に心に残った時間です。清水さんは爆心地から1.6キロで被爆し、原爆症によりお父さんを亡くされています、また、このお話をしていただいた日は清水さんのお父さんの命日でもありました。悲しげな表情で話されていたのを覚えています。清水さんは講話中、「十分な医療物資がもらえなかったけど、もしあの時大量の血液と栄養があったら何万人もの人たちを助けられていた」という言葉や「終戦後は原爆症の理解がなかったから被爆者はバレないようにしなくてはいけなくて生きるのが苦しかった」など終戦後の日本の様子も教えて頂きました。私はこの時、自分の原子爆弾に対する理解が浅はかだったことに気付きました。自分の中では、終戦後の日本はみんなで支えあってきたと思っていたからです。しかし今回の講話で自分の考えの間違いに気づき新しい知識を得ることができました。そして、改めて平和について考えました。私は、さまざまな考えを受け止め、尊重し合い、これからを生きる人たちに過去のあやまちを伝えて行くのが「平和」だと思います。現在の平和な広島があるのは先代の方々がどんなときでも諦めず、広島の復興を強く願ったからだと思います。「平和」を保つのは難しいことですが、一人一人が考えるだけでなく行動に移していくことが大切だと思いました。

関戸晴紀「広島と平和」

今回の広島研修で印象に残っていることが一つあります。それは、清水さんという方のお話です。清水さんは、3歳のころに被爆され、そこでお父様をなくされました。以来、被爆体験の証言を続けています。清水さんは被爆からの約10年がすごくつらかったとおっしゃっていました。終戦後、当時のアメリカ軍により広島と長崎に関する報道の一切が禁止されてしまい、支援物資なども届きませんでした。一家の大黒柱を失った清水さんのご家族は生きていくのも大変で、なんとか人並みの生活ができるようになったのは戦後から5年以上たってからのことだったそうです。さらに、13歳まで原爆症と呼ばれる放射線などによる症状に苦しめられ、ひどい下痢や鼻血、ぶらぶら病と呼ばれる激しい倦怠感に襲われることが毎日のようにあったそうです。そして、被爆から70年以上たった今でも、清水さんは放射能による様々な難病に悩まされています。僕は、研修が始まる前にこの研修で学びたいことが一つありました。それは、被爆後、広島の人々はどのようにして、元の生活に戻ることができたのか、ということです。この質問の答えは、ありませんでした。被爆した全ての人が完全に元通りの生活を送ることはできなかったからです。ある人は戦争による体への被害に悩まされ、ある人は助けることができたはずの命を救うことができなかったことを後悔しています。戦争とは、それを経験した人に一生まとわりつく暗い影のようなものなのです。
この苦しい思いをこれからを生きる子供たちに経験させない、そのために今できること。それは、核を廃絶することです。今、世界では戦争が起きています。そして、その戦争ではいつ核が使われてもおかしくない状況にあります。核は、国を守る抑止力になるかもしれません。でも、それと同時に、国を、そこに暮らすたくさんの人々のこれからを、簡単に壊すこともできるのです。自分たちだけではなく、この世界で暮らすすべての人を守ることができる社会。それを作るためにも全員が「核廃絶」という一つの目標に向かって、進んでいかなくてはならないのです。

金野莉子「平和をつくるために」

静岡から約5時間、新幹線に乗って到着した広島市を見たとき、77年前、この豊かな街に原爆が落とされたとは、私はにわかには信じられなかった。
初めて見た原爆ドーム。この綺麗な街と対比されるように置かれたこの大きな建物からは、写真で見ていた時よりも寂しく、痛々しく私の目に写って見えた。
講話をしてくださった清水弘士さんは、3歳の時、庭から家に入ろうとして、被爆した。あたり一面は火の海の底のようで、清水さんは何があったのかわからず、景色は全て映画のスローモーションのように見えたという。中には皮膚をたれ下げて歩いている人も、顔中にガラスの破片がつきささっている人もいたという。少し前まであった当たり前の日常も、広島の人たちや建物とともに全て消し飛んで無くなってしまったのだ。
「戦争はまだ終わっていない」
清水さんが講話の途中でおっしゃったことで、特にこの言葉はここ数日頭に焼きついて離れなかった。私が感じたように広島市は復興して、前のように怪我をしている人が歩いているわけではないかもしれない。だが今も原爆症や、心を痛めて苦しんでいる人はたくさんいる。原爆は、戦争は、壊して終わりじゃない。壊してからも、苦しむ人がいる限りその影響は残り続ける。もうこれ以上戦争で苦しむ人が出ないように、今私達が次の世代にこのことを語り継いでいく必要があると思う。そのためにも、「戦争は絶対にしてはならない」という思いを一人一人が持つことができるように、自分ができることを少しずつしていきたい。

堀悠真「ノウモア・ヒロシマ」

僕は、広島市への中学生代表派遣事業というもので、核兵器の恐ろしさや平和の尊さについて学び考えるため、広島へ行きました。今から、そこで感じたありのままをお話しようと思います。
広島でまず最初に訪れたのは、平和記念公園です。ガイドの方が解説してくれながら進んだのですが、一つ興味深い話を聞きました。この公園がある場所には、アオギリという木が生えていたそうです。その木はもちろん被爆し、焼けました。アメリカは放射能の実験結果から、「ヒロシマはあと75年は草木が生えない」と言っていましたがその翌年にこのアオギリに葉がついたのです。この話を聞いた時僕は、人々の心に希望を与えたこの木がすごいと思いました。
よく、広島へ行くと放射能にかかってしまうのでは、という声を聞きます。確かに残留放射能というものはありますが広島にはもうほとんどありません。放射能は雨に流されてしまったからです。という話を聞いたのが次に行った平和記念資料館。ここは被爆して亡くなった方々の遺品などが展示されている場所です。ここに展示されている亡くなった方の遺品というのはボロボロになっていたり、血だらけになっていたりと、とても悲惨なものでした。このような遺品を間近で見て僕は、分かっていたようで分かっていなかった核兵器の恐ろしさを改めて認識しました。
今回の研修では、怖いと感じることもあったけど、それ以上にあの焼け野原からとても活気あふれる町にまで復興した広島がすごいと思いました。この愛すべき我らが日本を守るためにも、二度と核兵器を使ってはならないと思います。

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