令和7年度広島平和研修感想文(北中生徒)

更新日:2025年09月24日

栗田 晴琉「平和な世界を創るために」

皆さんは世界中が平和になるためには自分に何ができるか、考えていますか?私は、広島市への代表派遣事業に参加すると決めるまで、あまり意識して考えたことがありませんでした。しかし、広島に着いてまず「全国平和学習の集い」に参加し、ここから自分たちができる平和への活動について深く考える時間が始まりました。この会では被爆者の笠岡さんからこちらも苦しくなるような体験をうかがったり、全国の小中高生と一緒に『平和でない状態』を解決するにはどうしたら良いのか話し合ったりしました。私が参加したグループでは、『相手の主張を聞かずに自分の主張を通そうとすると、どちらか、もしくはどちらも自分の主張が通らないことに怒り武力を行使するようになってしまって戦争が起こる。そのため、冷静になり、武力ではなく話し合いで解決をはかるようになれば、戦争は起こらないのではないか』という結論を出しました。
また2日目には、平和記念式典への参列や平和記念公園の見学、とうろう流しへの参加などを通してさらに多くのことを感じました。中でも広島平和記念資料館には多くの資料や遺品があり、真っ黒になった弁当箱や被爆した人々の衣服を見ていくうちに、それらは単なる「物」ではなくて、その向こうには確かに「人」が存在し、それらを使っていた人や寄贈した人の思いや願いがあるのだとひしひしと感じました。また爆心地に立って周りを見渡し、産業奨励館だった頃の写真と見比べながら原爆ドームを見上げ、これまで写真や映像の中の出来事だった戦争が、自分の中で急激に実体を持ったものとして立ち寒がってくる感じがしました。また漠然と太平洋戦争はずっと昔のことのような気がしていましたが、80年という年月が、ぐっと近くに感じられた瞬間でした。
今回の広島での研修で戦争の悲惨さや人々の苦しみにふれ、平和への強い意志を目の当たりにした私にとって、戦争はもう決してはるか昔の話でも遠い世界の話でもありません。しかし、こんなに身近な出来事だったのに、時間が進むにつれてどんどん関心が薄れ、まるで他人事のように戦争の傷跡や平和について深く考えなくなることは、大きな問題なのだと思います。
そこで私が考える平和のために自分たちができる大切なことは、戦争や核兵器に関心を持つこと、そして学んだことや感じたことを伝え合うことです。それが平和のために何をするべきかを考え、実行することにつながると思うのです。無関心でいると自分たちにもできることや自分たちがするべきことがある、ということも見えてこないと思います。だからこそ、まずは学ぶこと、伝えること、伝えてくれる人の声に耳を傾けることが大切なのだと思います。
私も一人でも多くの人に自分事として受け止めてもらえるように、まずは自分の周りの人たちに広島で見聞きしてきた内容を伝えることから始めたいと思います。これから先の平和な世界を創っていくのは私たちです。私たちが行動を起こしていかないといけないのだと、今強く強く思っています。

黒木 友志郎「平和な世界へ」

「命を軽く見ている」
普段ゲームの中でたくさんの人が死んでも、私はあまり気にすることはありませんでした。「戦争は自分とは関係ない」そんなイメージがあったのかもしれません。そんな私を見た姉から広島研修に参加するよう勧められました。
終戦80年の節目に、全国から集まった中学生とディスカッションすることになり、事前学習で静岡の空襲被害について調べました。アメリカ軍にはリトモザイクという攻撃対象をマークした航空写真があり、その中に私の家の近くの建物や道路が写っていたことに驚き背筋が凍るような思いがしました。その上、日本家屋の模型を作り燃焼実験を行っていました。焼夷弾からはナパームが飛び散り、その火が燃え広がるため消火が非常に困難で、被害は広範囲に及びました。当時は「焼夷弾の火は水で消せる」と思われており、多くの男性が消火のために戻り焼死する悲劇が起きました。安倍川は水を求めて逃げ込んだ多くの人が亡くなり、一夜にして火葬場と化しました。花火大会はその犠牲者を慰霊するためだということを初めて知りました。
広島でお話を伺った被爆者の笠岡貞江さんと梶矢文昭さんは、戦争中苦しい状況ながらもなんとか暮らしていましたが、8月6日に一変しました。原爆投下直後、皮膚がただれ垂れ下がった腕を幽霊のように前に突き出し、列をなして歩く人々を見たそうです。私はその様子を描いた絵を見た時、悪夢のような状況に胸が苦しくなりました。夜、笠岡さんのお兄さんがお父さんを連れて帰ってきた時、顔は大きく腫れ上がり衣服は焼失し体中真っ黒で光っており、声を聞くまで誰かわからなかったそうです。核兵器が人を人でないような姿に変えてしまうことが、本当に恐ろしいと思いました。また、梶矢さんは原爆投下直前、国民学校の玄関で雑巾がけをしていました。バケツの水を替えようとした時、お姉さんが「嫌な予感がする。」と言って、代わりに水を汲みに行ってくれました。その後梶矢さん自身も胸騒ぎを覚えふと顔を上げた瞬間、目の前が閃光に包まれ爆風で吹き飛ばされました。死に物狂いで崩れた屋根の上に這い上がり逃げましたが、お姉さんや友だちは柱の下敷きになって即死だったそうです。ほんの数分前まで一緒にいた家族が、突然命を奪われてしまうことの理不尽さと悲しさは、想像を遥かに超えるものでした。
平和記念資料館には、被爆した衣服や壊れた時計、焼け焦げ変形した弁当箱、街の写真、被爆者の書いた手紙などが展示されており、目を背けたくなるような悲惨な状態で、事実とは信じがたいものでした。改めて広島の街並みを見ると、あの地獄のような状況から、これほどまでに活気のあふれた街へと復興したのは、多くの人々の平和への強い願いと努力の積み重ねがあってこそだと感じました。
私たちは、平和の大切さをしっかり心に刻み、同じ過ちを繰り返さないために、周囲の人たちにも伝えていかなければならないと思います。そして、私たちが平和を意識しながら生活、行動することが大切だと思います。

山田 湖子「今この瞬間を生きられる幸せ」

「服は全部なくなって、生きているのに体中は真っ黒で、目玉は飛び出していた。『水をくれ。キチとは逃げる途中ではぐれた。』という声でようやく父だと分かった。水をやると死んでしまうと聞いていたので、『水道が止まって水はでない。』と嘘をつきました。」
被爆者の笠岡貞江さん92歳は絵を見せながら教えてくれました。私はとても衝撃を受けました。なぜならば私はそれが最初人形だと思ったからです。今でもその絵を一瞬で思い浮かべることができるほど怖かったです。
私の歴史の教科書には「アメリカは、原子爆弾を8月6日に広島、9日に長崎に投下しました。」という一文しか載っていません。私も広島に行く前までは、その程度しか知りませんでした。しかし実際に広島に行き、たくさんのことを知ることができました。広島の小中学生は毎年、8月6日に学校に行き黙とうをすること。原爆により動員学徒で亡くなった人は広島の次に静岡の人が多かったこと。原爆のことを「ピカ」という閃光と「ドン」という爆発音を組み合わせ「ピカドン」と呼んでいること。しかし実際には被爆者の多くはこの音の記憶がないということ。当時元気だった子供達でさえ、十数年後に白血病で亡くなったこと。やけどの後に激しい痛みを伴うケロイドを負ったり、被爆者だからという理由で、差別を受けたりしている方々がいること。原爆は体だけでなく、消えることのない心の痛みを一瞬にして一生背負わせたのだと痛感しました。
私が広島に行きたいと思ったきっかけは、曽祖父のことです。母が小学生の時、おじいちゃんに戦争のことを聞くと絶対に教えてくれなかった。しかし、いつも待ち合わせ時間ぴったりにくるので、母は不思議に思いお父さんに尋ねた。すると「陸軍中野学校出身だから。」とだけ教えてくれたそうです。平和記念公園にいた方は、陸軍中野学校は秘密の教育機関でスパイを養成する学校だった。頭が良くて、厳しい訓練を受けていたと教えてくれました。戦局が悪化すると、ゲリラ戦の幹部を三か月で養成するため東京にあった陸軍中野学校の分校として浜松市天竜区二俣に陸軍中野学校二俣分校が設立されました。これまでの、「いつでも命を投げ出せ」という教えとは正反対で「生きろ」と言われた。また一般人になりきれという理由で軍服ではなくスーツを着ていた。講義の時渡される極秘と書かれた教科書も講義が終われば全て取り上げられた。そのため、学んだことはその場で完全に記憶しなければならなかった。ある日川を渡り終えたところで教官が突然足を止めた。「橋の長さは?川の水深は?どのくらいの弾薬があれば橋を壊せるのか?」と質問を浴びせてきた。私生活を含め、全てにおいて気が抜けなかった。と、当時を振り返り卒業生が語っています。常に街や人の動きなどを考案することが体に叩きこまれていたので、曽祖父は時間ぴったりに行動できたのだと思いました。諜報員として極秘にしていくことがその人たちの任務だったから、それを生涯貫いた曽祖父は役目を果たしたと思いました。
広島市役所に被爆80周年と書いてあります。風化させないためには一人一人が興味、関心を持つこと。問題が起きたら話し合いで解決すること。今も世界で起きている戦争を自分のこととして捉え、行動していく。そのことが平和への第一歩だと私は思います。戦争を経験した世代が繋いでくれた命と平和のバトンを次世代に語り、繋いでいきます。

渡邉 百合衣「広島で感じた私の使命」

私は原爆の恐ろしさについてどれくらい知っているのだろうか。
2年生になり、学年全員で原爆の犠牲者に献呈する千羽鶴を折るようになってから「ヒロシマ」や「原爆」について今までよりも意識するようになりました。研修に参加する前の「広島への原爆投下」についての私の知識は、学校の授業や教科書、テレビ番組などから得たものくらいでした。
事前研修で原爆について学び、参加する前に自分でも調べました。原爆が投下されてから約10年後に白血病で亡くなった佐々木偵子さん。原爆体験を語ってくださる被爆者の方々も年々減っていること。多くのことを諦め戦争のために学徒動員として働かざるを得なかった今の私たちと同世代の人たち。家族とも広島の原爆について話したりしました。
実際に広島を訪れて見聞きしたことは、想像以上に私の心に強く刻まれました。
今回の広島派遣事業で、被爆者のお話を聞かせていただきました。被爆された方から聞く80年前の悲惨な状況、その後の後遺症や差別などの更なる苦しみ、そして80年経った今も残る戦争の傷跡についてのお話を聞き、このような悲惨な戦争を、人の命を奪うことを仕方ないとする戦争を、二度と繰り返してはならないという思いを強くしました。
お話をしてくださった笠岡貞江さんは、本当は思い出したくもないあの日の事を、今の子たちに戦争の悲惨さを知ってほしい、この平和がいつまでも続いてほしいから被爆体験の証言の講師をやっているとおっしゃっていました。同じ被爆者の中でも、思い出すのは辛いから被爆体験の話をできない方もいるそうです。被爆者の平均年齢は今年で86歳を超えたとニュースで聞きました。
戦争の悲惨さを生の声で聞く機会を得ることができたのは、本当に貴重な体験でした。
今回の広島派遣で、全国平和学習への集いと全国こども平和サミットに参加しました。同世代との平和に関する考えや全国の平和の取り組みについて学ぶこともできました。広島では、小学1年生から原爆について詳しく学んでいるそうです。
戦争の悲惨さを後世に伝え続けていくことは今生きている私たちの使命の一つだと感じました。
そんなことを思いながら、北中2年生みんなで折った千羽鶴を献呈しました。原爆の事を考えながら千羽鶴を作ることも大切な活動だと思いました。
8月6日に参加した平和記念式典で聞いたこども代表の言葉に、中学生の私が感動したのも、広島で行われている平和教育の影響が大きいからではないかと思いました。
広島に来て多くの人の声を直接聞いたことで、原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さについて肌に染み込んできたような感じがしています。今ある平和を守っていこうという多くの世代の存在を知ることもできました。原爆の恐ろしさについて私が知っていることは少ないですが、原爆の恐ろしさや平和の大切に対する考えが以前より広がったのは確かです。
研修から帰ってきた後、見聞きしたことを家族に話しました。私たちが二度と戦争という同じ過ちを繰り返さないために、こうやって話をしていくことも大切だと感じています。そして「この世から核兵器がなくなるまで消えない平和の灯火」が少しでも早く消えることを強く願っています。

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