令和7年度広島平和研修感想文(長泉中生徒)
木下 敦司 「小さな一歩の積み重ねで‥」
今回、町の代表として平和研修に参加し、原爆の恐ろしさや平和の大切さについて深く考える機会を得ることができました。実際に広島へ足を運び、原爆資料館を見学したり、被爆者の方々の講話を聴いたりする中で、これまで教科書でしか知ることのなかった「戦争」「原爆」が、現実で起きた出来事として自分の心に迫ってきました。
資料館では、原爆が落とされた直後の広島の惨状が、写真・映像・音声を通じて伝えられており、目をそむけたくなるような展示が多くありました。その中でも心に残ったものは、小さな子供が持っていた焼けこげた弁当箱や衣服、そして人の影がそのまま残った壁の展示でした。原爆が、ただの「兵器」ではなく、そこで暮らしていた人々の生活や命を一瞬で奪ったという現実を、改めて強く突きつけられました。あまりの衝撃にしばらくは何も考えられませんでした。
被爆者の方々の体験談では、家族や友人を失いながらも、「憎しみにとらわれるのではなく、二度と同じことが起きないように伝えていく」と話していた姿が強く心に残っています。その言葉に、私は「過去の悲劇をどう受け止め、前を向いて進んでいくか」が本当に大切なのだと感じました。
その後のグループディスカッションでは、自分で調べてきたことをもとに、感じたことを話し合いました。ある人が「話し合いで解決できるのなら戦争は起こらない」と感情的に話す中で、自分の頭に「なぜ話し合いができないのかを考えてみたい」という考えがうかんできました。そのとき、私は「広い視点で考えることが必要だ」と気づきました。
また、自分の発言がうまく伝わらず、少し落ち込んでいたとき、グループの一人が「その視点は新鮮だったよ」と声をかけてくれました。私は「失敗にとらわれすぎると、前に進みにくくなる」ということを学びました。広島の人々が悲しみの中でも前を向いて生きてきたように、私たちも小さなつまずきを引きずることなく、そこから何を学び、どう生きるかが大切なのだと思いました。
そしてもう一つ、研修中に考えたことは、自分の家族のことです。私は少し前に、自分の高祖父と高祖母が原爆で亡くなっていたことを知りました。どんな人だったか、どんな人生を送ったのかは分かりません、しかし、「この世にはいない」という事実だけで、不思議と命の重さを感じました。もしも、その命のつながりがどこかで途切れていたら、今の私は存在していなかったのだと思うと、命は決して当たり前ではなく、奇跡のようなものだと気づきました。
今回の平和研修は、私にとってただの歴史学習ではなく、自分自身の生き方を見つめ直すきっかけになりました。視点を変えることで見えるものがあること。失敗にとらわれずに、前を向いて進んでいくこと。そして、自分の命や他者の命を大切にしていくという最も重要なこと。
私は、これからもこの研修で得た学びを忘れず、周囲の人とも共有しながら、小さくても平和への一歩を積み重ねていきたいと思います。
志田 蒼太「未来へ」
「どうしてこんな目に……」、「安らかに眠ってください過ちは繰り返しませぬから」これは、原爆によって亡くなった人、傷ついた人、残された人、一人ひとりの心の叫びです。
広島への原爆投下は、罪もない何十万という人々の命を一瞬で奪った、これは歴史上の深く悲しい出来事です。これは人間という生き物が存在している限り決して消えないし、消すこともできません。しかし、人間は時間が経つうちに、こうした出来事の痛みや記憶、感情を忘れてしまいがちです。はたして、そんなことがあってもいいのでしょうか?僕はあってはならないと思います。
では、二度と同じ過ちを繰り返さないために僕たちはこの出来事から何を学ぶべきなのでしょう。それは、広島への原爆投下について「知る」ということだと思います。失われた数々の命、変わり果ててしまった生まれ育った街並みや風景、原爆により生まれた人々の悲しみ、怒り、恐怖、無念などの感情。僕たちは自らの手で調べ、学ぶことで、他の人へ伝える。現代に生まれてきた僕たちには、それを未来に語り継ぐ責任があると思います。それは、命を落とした被爆者の方たちへの敬意であり、同じ過ちを決して繰り返さないという誓いでもあります。
さらに僕は、「知る」ということは単に歴史上の事実を学ぶだけでなく、「人の記憶」として受けとめることが大切だと考えています。今から80年前の昭和20年8月6日に広島へ原爆が投下され大きな被害が生まれた、これは歴史上消えない事実です。しかし、それを「人の記憶」として受け継がなければ、ただ原爆が落とされたという事実だけを知り、原爆によってできた心の痛みや傷を知らずに済ませてしまうような人がでてきてしまうかもしれません。その「人の記憶」の中には、苦しみながらも懸命に生きようとした被爆者の方たち一人ひとりの物語があるのです。
その一人が、今回の広島派遣事業で話を伺った語り部の笠岡さんです。笠岡さんは12歳のころ被爆し、両親をなくしました。人だけでなく家畜や建物、樹木も火の海に包まれ、そのときのことを思い出すととても苦しいけれど、原爆の恐ろしさを若い世代の人たちに知ってもらいたくて活動をしているそうです。笠岡さんは、幸せを奪っていくのが戦争であり原爆であること、助けてと叫んでもみんな自分のことで手一杯で助けてもらえなかった記憶、そして一番寂しかったのは「ただいま」といっても「おかえり」という言葉が返ってこなかったこと、とおっしゃっていました。また、自分の意見も言うし、相手の意見も聞く。大勢の意見を聞いて多数決で一つの答えを決めるのではなく、その人それぞれの解釈をし合うことが平和への取り組みとも教えてくださいました。
これからの時代を生きる僕たちにできることは、被爆者の記憶に耳をかたむけ、その声をしっかりと受け止めることです。相手の意見を尊重し、自分の考えを伝え合いながら、平和の大切さを次の代に語りついでいくこと。それが原爆のない平和な世界を創るための一歩だと信じています。
渕岡 舞緒「伝えることでつながる未来」
1945年8月6日8時15分、突然目の前が真っ白になり、強烈な熱線、原爆が落ちた直後人々を何メートルも先まで吹き飛ばし、鉄筋コンクリートまで折れ曲がるほどの爆風、原子爆弾が落とされた後も続いた放射線。みなさんは知っていますか?あの日原爆によってどれだけの命が奪われたのか。
私は広島研修で、原爆ドームや平和記念資料館、爆心地、袋町小学校平和資料館などを訪れ、追悼式にも参列しました。
なかでも、平和記念資料館で見た展示は私の心に強く残りました。被爆者の方が着ていたぼろぼろになった服や爆風の衝撃により、ガラスが突き刺さった壁を目の前にした時、戦争や原爆の恐ろしさを言葉では言い表せないほど強く感じました。教科書や写真で見たものとは比べ物にならないほどの迫力や、重みがありました。その瞬間、原爆が人々の暮らしや命、平和までも一瞬で奪った事実をより現実として感じました。
袋町小学校では、被爆当時の子供たちが置かれていた状況や、学校が避難所や救護所として使われていたこと、小さな体で恐怖や悲しみを抱えた子供たちがいたことを知りました。
また被爆者の方から直接お話を聞くことができました。本や映像からは知ることのできなかった被爆直後の混乱や、その後の長い人生の中で抱え続けた苦しみについて聞きました。それだけでなく、その方が考えている未来への願いも教えていただきました。特に印象に残ったのは「自分の意見をみんなに伝えること、そして他人の意見も聞くことが大切」という言葉です。出された意見をもとに、それぞれの考えを理解しあい、みんなにとってより良い形を探し、実行することの重要さを教えてもらいました。この考えは平和を築くために必要なことだと強く感じました。
追悼式では多くの人が静かに手をあわせていました。その中には外国から訪れた方もいて平和への願いは国を超えてつながっていると感じました。
今回の研修を通して、平和は当たり前ではなく、多くの人の努力や願いによって守られているのだと改めて感じることができました。戦争の悲惨さや原爆の恐ろしさを伝え続けることは、過去の出来事を繰り返さないために欠かせません。そのためには、一人一人が他人の意見を尊重し、違いを受け入れながらより良い未来を考えていくことが大事です。
広島に住む人たちは、小学校や中学校で、原爆や戦争について深く学ぶ授業があるそうです。しかし長中ではそういう授業はほとんどないと思います。だから、何か平和や戦争、原爆に関する行事に参加して、戦争や原爆についてもっとくわしく知り、周りの人に伝えていくこと、平和について自分なりに考え、自分にできることを探すことが、過去を繰り返さないことにつながり、世界がすこしでも平和に近づくことができるように強く願っています。広島で受け取った平和の願いを次は私が他の誰かに届けていきたいです。
渡邊 ゆず「当たり前などない」
広島に着くとたくさんの人が歩いていた。みんな、私と同じように家族に「いってきます」と言って家を出て、「ただいま」と言って家に帰ることを当たり前に感じている人たちに違いない。この当たり前が、80年前のこの日に奪われた。当たり前におはようと言った父は影になった。当たり前にいってきますと言った母は焼けて死んだ。いつも当たり前に遊んでいた兄弟は皮膚が落ちて苦しんで死んだ。私が広島を訪れたこの日の80年前に多くの当たり前が奪われたのだ。ただ、戦争が終わることを祈っていた家族が、ただ、日本が勝つことを信じて、飢えに耐えていた家族が、何の罪もないのに一瞬にして壊された。
被爆体験者の方のお話を聞いた時、大変ショックを受けた。人の命だけでなく、人の幸せを奪うものが原爆。多くの人が炎につつまれて助けを求めてきたが、助けることができない、目の前で大切な人が死んでいく。私の父や母、姉、妹、弟が目の前で苦しんでいるのに何もできない、死んでいってしまうのを見ていることしかできないということになったらどんなに辛いことか想像をすることすら悲しくなった。生き残った人も皮膚はただれ、火傷を負い、病院で治療してもらいたくても、兵隊の人しか治療をしてもらえなかったそうだ。今なら当たり前のように病院へ行き治療を受けられる。そもそも家族が命を奪われることも、怪我を負わされることもない。私は家族が多い。家に帰れば必ず誰か居て「おかえり」と声をかけてくれる。そんな当たり前のことも原爆で全て奪われてしまう。幸せも奪われてしまう。
多くの人が犠牲になった戦争。お国のため、大切な者のためと言って戦争に行かなければならない。戦争に行く方を見送らなければならない。行きたくない、行かせたくないと言ったあら非国民と言われ差別を受ける。家族が簡単に離ればなれになる。二度と会うことができないかもしれない。なぜ戦争が起こるのだろう、なぜみんな仲良くできないのだろう。二度とこんなに悲しく悲惨なことは起こしてはいけない。
私は改めて平和の大切さ、尊さを学んだ。毎日帰れる家があること、毎日おいしいご飯が食べられること、兄弟喧嘩をすることでさえ幸せなことだと思えた。何よりも家族が近くにいることがとてもありがたいことなのだと思う。
よく当たり前などないという言葉を聞いた。その意味がよく分からなかった。当たり前は失わないと分からないものだと心のどこかで無意識に思っていたのだろう。でもこの広島研修で当たり前は簡単に壊れてしまう、本当に当たり前などないということに気づけた。
だからこのような戦争のない平和な時代に生まれてこられたことや、家族に愛をもって育ててもらっていることに感謝をしなければならない。今回学んだことをこれからもずっと忘れずに、大切にしていきたい。

更新日:2025年09月24日