令和6年度広島平和研修感想文(北中生徒)

更新日:2024年09月17日

粟田 野愛「平和学習」

広島に実際に行く前に、テレビのニュースを見ていたら、ウクライナとロシアが身近で戦争を行っていました。戦争のことは、広島へ行く前から、少しだけ知っていました。学校の授業で少し習ったぐらいなので、詳しくは分かりません。したがって、平和研修に行きました。
平和研修では、主に核兵器の怖さについて知ることができました。原子爆弾です。原子爆弾はただの爆弾と違い放射線を放ちます。この放射線は鉄筋コンクリートと水以外のすべての物質を通ることができます。だから、爆心地から1500m離れた木の家も放射線が通ります。平和記念公園のモニュメントの元になった、「佐々木貞子さん」。その方は2歳で被爆しました。爆死は免れましたが、放射線による白血病によって12歳という若さで亡くなってしまったのです。白血病とは、簡単に言うと「血液のがん」です。被爆当時では医療機関が発達していないので治せる確率はとても低かったそうです。他にも傷や火傷をした部分の皮膚が盛り上がる「ケロイド」というものもありました。ケロイドは盛り上がった皮膚を手術で切り取りきれいな皮膚を張り付けて治します。顔にケロイドができてしまった人は顔に縫った跡が残ってしまいます。このように放射線はものすごく危険で怖いものだと分かりました。
今でも原爆の実験や核兵器の開発などは進められています。核兵器廃絶に向けて、いまできるのは何かを考え、行っていくことが大切です。この小さな行動が核兵器廃絶に繋がることを信じて、空いている時間などに戦争について考えていきたいです。

名倉 桜花「被爆を忘れないために」

私はこの平和研修に行く前に、事前研修を行いましたが少しの映像と文章だけを見て理解をしていたため、実際の被爆当時のことはあまり想像がつきませんでした。
しかし、広島に実際行って平和記念資料館や原爆ドームなどを見学するうちに、当時の焼け野原のことや、その後苦しんでいた人たちの地獄の風景が想像できました。
また、被爆者からの貴重なお話を聞くことができました。被爆者のお話を聞いて特に感じたことは、被爆を受けた時よりもその後の生活が大変だったということです。そして、被爆者は「世界から核兵器と戦争がなくなりますように」という強い願いを抱いていることが分かりました。
平和祈念資料館にも書いてあったとおり、今、ロシアとウクライナの戦争が続いております。
この戦争により、ロシアからベラルーシに核兵器が運ばれ、いつ核兵器が使われて、多くの人が犠牲になってしまってもおかしくありません。
そして、現在では原爆について知らない世代による原爆の記憶の風化が心配されています。
だから、研修を通して原爆の恐ろしさを理解した私たちが率先して多くの人に伝えていかなければなりません。
私たち一人一人ができることは限られています。だからこそ私たちがすべきことは周りの人と団結し、より平和な世界を目指すことです。
この平和な日常を守り続けるためには、被爆のことを多くの人に伝え、戦争や核兵器をこの世界からなくすためには仲間と協力し合い、根気強く課題に取り組むことが大事だと考えました。
まず私は、周りの人に今回の経験で学んだことや感じたことを積極的に伝えていきたいです。

根本 茉奈「核兵器廃絶への道へ」

1945年8月6日8時15分、当時の広島市は目が眩むほどの光とドーンッと強烈な爆音、爆風に包まれました。原子爆弾が落とされたのです。皆さんは知っていますか?あの日何が起きたのか。
この話は私が広島研修に行き、実際被爆した女性から聞いた話です。あの日は快晴で7時31分に警戒警報が解除され、たくさんの人が家から仕事に出ていました。学徒動員も出て、多くの生徒が広島市に来ていたそうです。そんな中、原爆は落とされたのです。
彼女は当時、爆心地から2・2キロほど離れた自宅で被爆したそうですが、落ちた瞬間どんな人も自分の家に爆弾が落ちたと思うほどで、外は夕暮れのように暗くなるほどの大きな雲に覆われ、負傷者は家畜のように運ばれ、水を求めて川に入る人が大勢、道には気の狂った人がたくさん歩いていたそうです。原爆投下で14万以上の人々が被害に遭い、その中で私と同じ学生で学徒動員として出ていた学生は6千人以上にものぼります。聞いた当初、私には理解できませんでした。原爆資料館や講話で見たり聞いたりしてみても、本当に昔あの地でこのようなことが起きたことが、信じられませんでした。しかし本当だと思うと、胸がとても痛く締め付けられました。そして講話の最後にはこんな話をしていました。
「戦争と平和について学び考え、それぞれの立場で自分に出来ることから始めましょう」と。今自分のできることとは何なのでしょう。私は、次の世代へと伝えていくことだと思います。授業で習っているから知っているという人がほとんどだと思います。しかし、それだけでなくもっと詳しく知ってもらい、自分たちの子供へと、そしてその次の世代へと伝えていくことが核兵器廃絶へ、そして平和へとつながっていくと思います。だから、たくさんの人にあの日広島に起きたことを知ってもらい、このようなことが二度と起こらないことを、そして、いつか核兵器が廃絶され、世界が恒久平和へとつながることを強く願っています。

古澤 心那「戦争や原爆の悲惨さ」

私は広島平和学習で戦争や原爆の恐ろしさ、そしてこのことはあってはいけないことが改めてわかりました。この研修を通してたくさん学びましたが、その中で2つの話が心に残っています。
一つ目は被爆を8歳のときに体験している山瀬潤子さんの話です。被爆後、家の近所にいる薬屋のおばあさんが赤子を抱き「助けて-」と叫んでいました。それだけではなく、トラックがけが人を乗せており、その中には亡くなっている方もいたかもしれなかったそうです。そして、潤子さんのお父さんは、被爆時に橋から落ちずにすみ、一度家に帰ると大やけどをし、水ぶくれがあったが、また家を出て帰ってきたときには水ぶくれが破け後遺症としてケロイドも残りました。もし私の家族がこうなってしまったらと思うと、とても恐ろしく悲しいことだなと思いました。
二つ目は静岡県とも関わりがある話です。ピースボランティアの方のお話では、戦争の被害の一つに、静岡も入っていたそうです。静岡は富士山があるので、空襲の目印にもなるため、攻撃されやすかったそうです。なにも悪いことをしていない人々の尊い命を爆弾が残ったという理由で無差別に奪われたのです。その話を聞いて、とても悲しくなりました。そしてなにより、自分の住む場所に爆弾が落とされたと聞き、戦争が少し身近にも感じられました。
今でも核兵器を保有している核保有国は多く、劣化ウランを使い戦争をしている国もあります。戦争や核兵器を無くし平和な世界にするためには、昔の話だからという理由で聞き流すのではなく、一人一人が戦争や平和について学び、自分にできることを考えていく必要があると思います。私は今回学んだことをまずは家族や友達などの自分の周りから話していき、もうこのようなことが起こらないようにしたいです。あなたなら平和な世の中にするためには何をしますか。あなただからこそできることをし、戦争も核兵器もない平和な世の中を一緒に実現していきましょう。

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